2013年09月
2013年09月30日
感傷
友人の他界から己の生を知る。
脊損になった時から、後の自分はおまけの人生だと思い続けていた。
いつも社会の向こう側にいるのだと感じていた。
しかし、ハンドバイクに乗り、自分の感じる不安と不満が社会とリンクした時、いつしか等身大のリアルな自分がいた。
私もこの目線になって来年の11月で25年。健常者でいたことはとうの昔になった。
年齢のせいか、自己満足のためか、次世代につなげられることは何かと考え、そこにはハンドバイクがあった。
足の代わりに車いすがあり、自転車の代わりにハンドバイクがある。
輪廻転生。次の世代というより次の世界で、健常者障がい者、どちら側の目線で見ることになってもごく普通に生活のなかにある、そんなことを思いながら。
だからやっぱりハンドサイクルより、ハンドバイク。
バイクの先にある道はみな同じ。
脊損になった時から、後の自分はおまけの人生だと思い続けていた。
いつも社会の向こう側にいるのだと感じていた。
しかし、ハンドバイクに乗り、自分の感じる不安と不満が社会とリンクした時、いつしか等身大のリアルな自分がいた。
私もこの目線になって来年の11月で25年。健常者でいたことはとうの昔になった。
年齢のせいか、自己満足のためか、次世代につなげられることは何かと考え、そこにはハンドバイクがあった。
足の代わりに車いすがあり、自転車の代わりにハンドバイクがある。
輪廻転生。次の世代というより次の世界で、健常者障がい者、どちら側の目線で見ることになってもごく普通に生活のなかにある、そんなことを思いながら。
だからやっぱりハンドサイクルより、ハンドバイク。
バイクの先にある道はみな同じ。
2013年09月26日
シンポジウム
シンポジウム「自転車の公共政策を斬る」
~国・東京都の自転車政策はどうあるべきか~
http://niben.jp/info/event20130925-1.pdf
行ってまいりました。
(案内の人に画像録音NGと言われたのでデータ無し。聞かなければ良かったか!?)
いや〜熱かったです。
国、省庁ということで、法、通達は動いた。
ならば地方としての都道府県、市区町村としての条例、通達はどうなんだ、と問いかけられたように感じました。
ここをこうしなさいと、その場限りの対処療法では元の木阿弥になるでしょう。
となるとその引き換えに、この国がどこに進むべきかの”目標”が示されることによって、骨子が明確になり、根拠を示せることになり、必要最低限のことは守らなければならない義務が生じ、本当の加速が始まるはずです。本当の頂点はまだ霞がかかっているように思えます。
後半のコメントにて、小泉様が(わかりやすい対象と言うことでしょう)
「タンデムを走るべき道を整備したい」
ともうされ、さらに
「車いすの後ろに自転車がついているもの」
という言葉がありました。
これは紀洋工業の製品のことを指している言葉だと思いますが、遠からずハンドバイクもそのなかに含ませると思います。
さて、これからが本番です。
走れない、ではないのです。
走れるようにするためにはどうするか、なのです。
後日、動画が公開されるのかと思いますので、その際にはフォローしたいと思います。
ちなみに、最後の質問は私がしてしまいました。^^ゞ
車両の例外としての車いす、原動機の例外としての電動アシスト、自転車の例外としてのハンドバイク。
その立場と権利と義務を明確にしていく作業が必要になるのであろうと思います。
でわでわ
~国・東京都の自転車政策はどうあるべきか~
http://niben.jp/info/event20130925-1.pdf
行ってまいりました。
(案内の人に画像録音NGと言われたのでデータ無し。聞かなければ良かったか!?)
いや〜熱かったです。
国、省庁ということで、法、通達は動いた。
ならば地方としての都道府県、市区町村としての条例、通達はどうなんだ、と問いかけられたように感じました。
ここをこうしなさいと、その場限りの対処療法では元の木阿弥になるでしょう。
となるとその引き換えに、この国がどこに進むべきかの”目標”が示されることによって、骨子が明確になり、根拠を示せることになり、必要最低限のことは守らなければならない義務が生じ、本当の加速が始まるはずです。本当の頂点はまだ霞がかかっているように思えます。
後半のコメントにて、小泉様が(わかりやすい対象と言うことでしょう)
「タンデムを走るべき道を整備したい」
ともうされ、さらに
「車いすの後ろに自転車がついているもの」
という言葉がありました。
これは紀洋工業の製品のことを指している言葉だと思いますが、遠からずハンドバイクもそのなかに含ませると思います。
さて、これからが本番です。
走れない、ではないのです。
走れるようにするためにはどうするか、なのです。
後日、動画が公開されるのかと思いますので、その際にはフォローしたいと思います。
ちなみに、最後の質問は私がしてしまいました。^^ゞ
車両の例外としての車いす、原動機の例外としての電動アシスト、自転車の例外としてのハンドバイク。
その立場と権利と義務を明確にしていく作業が必要になるのであろうと思います。
でわでわ
2013年09月23日
自活研in大阪
先日、ついに大阪に行きました。
どどーんと、大阪城。
大阪市内に整備された自転車レーンを見るのとあわせて、その発表となる自活研、それともちろん実走も。
<レーン見学から自活研>
レーンはなかなか良いです。
その幅、交差点の処理、それら物理的要件とは別に、府警や大阪市が行っていることにあわせて、民会団体も積極的に参加していることに感銘を受けました。
とはいえ、これだけのメンツを平日のこんな短時間だけのステージだなんて。
こんなん、サイクルモードと同じメンツですよ。もったいなさ過ぎる!(T_T)
その向かいを何のイベントかと不思議がりながら通り過ぎる人。
もらえるものはもらう人。
歩道をはじき出されて車道を逆走する人。
なにも注意しない人。
小林さん力説。
ファンはよだれものかもしれない。
そして何より、この自活研に大阪職員が発表されているということ。
エリアの設定方法。
レーンの設定の仕方。
警察の協力の得方。
後はどれだけ浸透させることができるかだろう。
地道に浸透させるか、
派手にインパクトを付けるか、
他方との対比で自慢するか、
逆に他方との比較で逆境に向かうか。
日常そのものを問題なのだと気がつかせることそのものが一番難しいのかもしれない。
<現場>
とはいえ、その問題点をできるだけ俯瞰した目で見るためには現場の状態を自分の意識に感じる必要があると思い、JR大阪環状線のに沿って一周し、その真んなかを貫く御堂筋を通り、現場を見てきましたよ。
一言、なんなんだ。
信号無視、逆走、二人乗りの三冠王。
誰も悪びる雰囲気は無く、誰も注意するなんてことも無く、自動車でさえもいつものことという感じ。
帰って来てからもその原因を考えた。
一つ、土地が平らであること。
→下り坂でスピードが出ることからの自衛心が生まれない。上り坂で体力の限界を感じない。それゆえ、わがままな走りになのではないか。
一つ、自動車道の標識と自転車は除くの標識
→自歩道扱いであるのに自転車道の標識がついている。ほとんどの一方通行路に「自転車は除く」の標識があり、どうでも通れることによりなんの秩序も見られない。よってなんでありとなる。
先日の大阪の自活研で外側線についてコメントして、そして今日、都内を走ってみて、線だけならどちらも同じ条件だと知った。
東京都江東区:クルマが少ないから?外側線がなくてもハンドバイクでも問題なかった。
大阪市中央区:道幅が狭くて自動車以外を受け入れる余裕がないというのが正解なのか?塗れば解決するというだけの単純な問題でもないのかもしれないが。
3)堺市:休日だから問題がなかった?隣の市だとこんなに余裕もあって外側線が引かれた道が多くあった。
強制力を持って強者をねじ伏せるよりも、弱者を受け入れて許容性の幅を広げる事ができるのならば。きっと、大阪のこの自転車レーンの取り組みはそのような気持ちの切り替えをしたのだろうと思われる。
せっかく平らでハンドバイクで走りやすいし、利己的に考えれば3輪を受け入れられるかで、その価値が判定できるのではないかと考える。
そして歩道について。
なぜもこの表示になったのか?標識とは誰でも正しい意味でわかりやすくする目的があるはずで、これでは混乱を来す。
とはいえニクイのはこの車道との境界の処理。
これならいわゆる”波打ち歩道”にはなりにくい。自転車が通ることには賛同しないが、車いすが通ることに対してこの構造は羨ましく思う。
この標識は斬新だった。けど、そこに歩行者の存在は!?
そしてもう一つ見たかった緩速車線。
結局、ただの駐車場付の車線。非常に腹立たしいのが、緩速車線なのに制限時速は50km/h!!
理論的に遅い車両がいてもそれをアオってはいけないことだろうと可能な範囲で真ん中通ってやった。:-)
<ポタリング>
さてさて、難しいことは置いといて、観光です。
もちろんハンドバイクで、要はポタリング。
やっぱこれか。
一番上の大阪城バックで撮っていたら知らないひと(たぶん中国人)が勝手にハンドバイクを手にして写真撮ってるし。
そのあと珍しがられて囲まれるし。
ねぎ焼き
やっぱ、おおさかといえば、さすべぇ!?
この日は日差しが強く、街を歩けばさすべぇに当たる。
関空
大阪市の隣は堺市。やっぱここでしょ。
そのほんのすぐ先に
その帰り、阿倍野区にと通りかかったドーナッツ屋。
んまかった。
ふ〜ぅ。
しばらくしてまた行って、変化の程を見てみたいと思う。
うかうかしていると東が抜かれてたりね。
どどーんと、大阪城。
大阪市内に整備された自転車レーンを見るのとあわせて、その発表となる自活研、それともちろん実走も。
<レーン見学から自活研>
レーンはなかなか良いです。
その幅、交差点の処理、それら物理的要件とは別に、府警や大阪市が行っていることにあわせて、民会団体も積極的に参加していることに感銘を受けました。
とはいえ、これだけのメンツを平日のこんな短時間だけのステージだなんて。
こんなん、サイクルモードと同じメンツですよ。もったいなさ過ぎる!(T_T)
その向かいを何のイベントかと不思議がりながら通り過ぎる人。
もらえるものはもらう人。
歩道をはじき出されて車道を逆走する人。
なにも注意しない人。
小林さん力説。
ファンはよだれものかもしれない。
そして何より、この自活研に大阪職員が発表されているということ。
エリアの設定方法。
レーンの設定の仕方。
警察の協力の得方。
後はどれだけ浸透させることができるかだろう。
地道に浸透させるか、
派手にインパクトを付けるか、
他方との対比で自慢するか、
逆に他方との比較で逆境に向かうか。
日常そのものを問題なのだと気がつかせることそのものが一番難しいのかもしれない。
<現場>
とはいえ、その問題点をできるだけ俯瞰した目で見るためには現場の状態を自分の意識に感じる必要があると思い、JR大阪環状線のに沿って一周し、その真んなかを貫く御堂筋を通り、現場を見てきましたよ。
一言、なんなんだ。
信号無視、逆走、二人乗りの三冠王。
誰も悪びる雰囲気は無く、誰も注意するなんてことも無く、自動車でさえもいつものことという感じ。
帰って来てからもその原因を考えた。
一つ、土地が平らであること。
→下り坂でスピードが出ることからの自衛心が生まれない。上り坂で体力の限界を感じない。それゆえ、わがままな走りになのではないか。
一つ、自動車道の標識と自転車は除くの標識
→自歩道扱いであるのに自転車道の標識がついている。ほとんどの一方通行路に「自転車は除く」の標識があり、どうでも通れることによりなんの秩序も見られない。よってなんでありとなる。
先日の大阪の自活研で外側線についてコメントして、そして今日、都内を走ってみて、線だけならどちらも同じ条件だと知った。
東京都江東区:クルマが少ないから?外側線がなくてもハンドバイクでも問題なかった。
大阪市中央区:道幅が狭くて自動車以外を受け入れる余裕がないというのが正解なのか?塗れば解決するというだけの単純な問題でもないのかもしれないが。
3)堺市:休日だから問題がなかった?隣の市だとこんなに余裕もあって外側線が引かれた道が多くあった。
強制力を持って強者をねじ伏せるよりも、弱者を受け入れて許容性の幅を広げる事ができるのならば。きっと、大阪のこの自転車レーンの取り組みはそのような気持ちの切り替えをしたのだろうと思われる。
せっかく平らでハンドバイクで走りやすいし、利己的に考えれば3輪を受け入れられるかで、その価値が判定できるのではないかと考える。
そして歩道について。
なぜもこの表示になったのか?標識とは誰でも正しい意味でわかりやすくする目的があるはずで、これでは混乱を来す。
とはいえニクイのはこの車道との境界の処理。
これならいわゆる”波打ち歩道”にはなりにくい。自転車が通ることには賛同しないが、車いすが通ることに対してこの構造は羨ましく思う。
この標識は斬新だった。けど、そこに歩行者の存在は!?
そしてもう一つ見たかった緩速車線。
結局、ただの駐車場付の車線。非常に腹立たしいのが、緩速車線なのに制限時速は50km/h!!
理論的に遅い車両がいてもそれをアオってはいけないことだろうと可能な範囲で真ん中通ってやった。:-)
<ポタリング>
さてさて、難しいことは置いといて、観光です。
もちろんハンドバイクで、要はポタリング。
やっぱこれか。
一番上の大阪城バックで撮っていたら知らないひと(たぶん中国人)が勝手にハンドバイクを手にして写真撮ってるし。
そのあと珍しがられて囲まれるし。
ねぎ焼き
やっぱ、おおさかといえば、さすべぇ!?
この日は日差しが強く、街を歩けばさすべぇに当たる。
関空
大阪市の隣は堺市。やっぱここでしょ。
そのほんのすぐ先に
その帰り、阿倍野区にと通りかかったドーナッツ屋。
んまかった。
ふ〜ぅ。
しばらくしてまた行って、変化の程を見てみたいと思う。
うかうかしていると東が抜かれてたりね。
2013年09月08日
五輪
ついにオリンピックが決まりましたね。
正直、今来てもらっても困るという感情ではいましたが、それはそれ、決まったからには応援しなくてはなりません。
ただ、応援したくても現地入りできるかはわかりませんし、多くの人に見てもらうのには放映は外せんません。
先日の自活研でのツールドフランスの話しでもあったように、放映権そのものビジネスなのだと思います。
ですが、前回ロンドンでのハンドバイク競技について、疑問が多すぎです。
なぜ、あれだけ映像が無いのか?
なぜ、サーキットでのクローズドコースだけだったのか?
その仮説として。
放映しても視聴者が少ないだろう。
人気度も含め、カテゴリーなどがあまり一般的ではない。
いわゆる、できレースだった。
動画を探しても、中継もされていないので公式のチャンネルにも無いし、さすが動画はなかなか無いのです。
静止画ではありますが、どうやらカメラマンが編集したスライドショーのようです。
オリンピックとは関係ないですが、同じ方のものを。
この世界観についていけるのか?
さぁ、これからどのように強化していくのか、その先にあるものを見たいものです。
はたしてロンドンと同じような自転車革命は起るのでしょうか?
とはいえ、あの「バイシクルスーパーハイウエイ」にはリカンベントの姿を見ることはあるものの、ハンドバイクの姿を見ることは今のところありません。いや、見ているチャンネルが偏っているだけなのかもしれないですが。
とはいえ、もしかしたらそこを評価基準に定めても良いのでしょう。
ま、ここでは繰り返しでしかないところですが、「ハンドバイクが通る街」。
ハンドバイクは3輪と置き換えてもいい。
自転車専用道路でも、自転車レーンでもない。あえて「3輪」。
話しは変わりますが、先日、自活研の内輪掲示板へ次の論文のリンクを参考として貼りました。
国土交通省国土技術政策総合研究所
幅員主義から車線主義へ
~昭和 45 年構造令の全面改定~
http://www.nilim.go.jp/lab/gbg/pdf/h22-24.pdf
そこでのコメントを引用させていただくと、
「私たちの理論的根拠になっているものです。」
とのこと。
そのとおりで、一読だけで胸のつかえが一本取れたような気がしました。
あくまで一本ですが。
この「車線主義」という考えの基、ハンドバイクの存在は打ち消され、その延長に先のロンドンパラリンピックの放映が無いことにつながるのではないかと懸念するところです。
交通戦争と呼ばれたモータリゼーションから半世紀。
車輪は歩くことの代替だと、ここで声を大にして訴えたいです。
昭和45年改正、私の生まれる少し前のこと。
今を生きる40歳未満の人はその歳にあてはままります。
長い間、これで仕方がないと思っていました。
ハンドバイクに出会ってからもその考えに支配され、日本を出て本物のバイクレーンを見るまでその想いは払拭されませんでした。井の中の蛙、そんな言葉が不意に出ます。
早くそのチョンマゲを切った方がいいと思いますよ、と。
後7年、バリアフリーからユニバーサルへ、
考え方を利己的なものから共感的なものへ、
固有から多様へと、どう変化させることができるか。
偉い人のいう”経済”はそのための道具だろうと思う。
自転車も乗ることは目的だけではなく、その先にある、生活を豊かにするための道具だろう。
道具を使い、工夫することこそ人間的だとすれば、楽をすることだけが文明なのか。
健常者に混じることでそのことを感じ、感じさせることができるのだろう。
そういえば、まだ東京大会では、共通開催とかの言葉は無いねぇ。
正直、今来てもらっても困るという感情ではいましたが、それはそれ、決まったからには応援しなくてはなりません。
ただ、応援したくても現地入りできるかはわかりませんし、多くの人に見てもらうのには放映は外せんません。
先日の自活研でのツールドフランスの話しでもあったように、放映権そのものビジネスなのだと思います。
ですが、前回ロンドンでのハンドバイク競技について、疑問が多すぎです。
なぜ、あれだけ映像が無いのか?
なぜ、サーキットでのクローズドコースだけだったのか?
その仮説として。
放映しても視聴者が少ないだろう。
人気度も含め、カテゴリーなどがあまり一般的ではない。
いわゆる、できレースだった。
動画を探しても、中継もされていないので公式のチャンネルにも無いし、さすが動画はなかなか無いのです。
静止画ではありますが、どうやらカメラマンが編集したスライドショーのようです。
オリンピックとは関係ないですが、同じ方のものを。
この世界観についていけるのか?
さぁ、これからどのように強化していくのか、その先にあるものを見たいものです。
はたしてロンドンと同じような自転車革命は起るのでしょうか?
とはいえ、あの「バイシクルスーパーハイウエイ」にはリカンベントの姿を見ることはあるものの、ハンドバイクの姿を見ることは今のところありません。いや、見ているチャンネルが偏っているだけなのかもしれないですが。
とはいえ、もしかしたらそこを評価基準に定めても良いのでしょう。
ま、ここでは繰り返しでしかないところですが、「ハンドバイクが通る街」。
ハンドバイクは3輪と置き換えてもいい。
自転車専用道路でも、自転車レーンでもない。あえて「3輪」。
話しは変わりますが、先日、自活研の内輪掲示板へ次の論文のリンクを参考として貼りました。
国土交通省国土技術政策総合研究所
幅員主義から車線主義へ
~昭和 45 年構造令の全面改定~
http://www.nilim.go.jp/lab/gbg/pdf/h22-24.pdf
そこでのコメントを引用させていただくと、
「私たちの理論的根拠になっているものです。」
とのこと。
そのとおりで、一読だけで胸のつかえが一本取れたような気がしました。
あくまで一本ですが。
この「車線主義」という考えの基、ハンドバイクの存在は打ち消され、その延長に先のロンドンパラリンピックの放映が無いことにつながるのではないかと懸念するところです。
交通戦争と呼ばれたモータリゼーションから半世紀。
車輪は歩くことの代替だと、ここで声を大にして訴えたいです。
昭和45年改正、私の生まれる少し前のこと。
今を生きる40歳未満の人はその歳にあてはままります。
長い間、これで仕方がないと思っていました。
ハンドバイクに出会ってからもその考えに支配され、日本を出て本物のバイクレーンを見るまでその想いは払拭されませんでした。井の中の蛙、そんな言葉が不意に出ます。
早くそのチョンマゲを切った方がいいと思いますよ、と。
後7年、バリアフリーからユニバーサルへ、
考え方を利己的なものから共感的なものへ、
固有から多様へと、どう変化させることができるか。
偉い人のいう”経済”はそのための道具だろうと思う。
自転車も乗ることは目的だけではなく、その先にある、生活を豊かにするための道具だろう。
道具を使い、工夫することこそ人間的だとすれば、楽をすることだけが文明なのか。
健常者に混じることでそのことを感じ、感じさせることができるのだろう。
そういえば、まだ東京大会では、共通開催とかの言葉は無いねぇ。