2012年10月21日

中速の中のハンドバイク(その3)

3)目的と手段

では、ヒトは足を使い何をしているかな?と考えてみる。
  ○歩く
  ○走る
  ○登る
  ○蹴る
  ○泳ぐ
といった具合だろうか。
ただし、泳ぐことは手でも可能であり交通ではないので省略する。

では、それを手段に置き換えてみる。
  ○道を歩く
  ○道を走る
  ○道を階段を登る→電車バスに乗る
  ○自転車に乗る
  ○自動車に乗る
といった具合に考えられるだろう。

今一度、下図について考えてみると
b3歩行手段の代用


  ○歩く    ー 車いす
  ○走る    ー 車いす
  ○自転車   ー ハンドバイク
  ○オートバイ ー WCV
  ○自動車   ー ハンドコントロール
  ○電車    ー バリアフリー、ユニバーサルデザイン
  ○バス    ー 同上

この様な置き換えを考えることができる。

では、健常者における交通手段とは何なのだろうか?という疑問が出る。
単なる選択肢なのだとすれば、早い・便利ということで時間が短い自動車だけを考える”自動車脳”が生まれることは想像しやすい。

その延長に障がい者を当てはめれば、自動車での移動は多くても、電車や歩道など街中を移動する車いすが少ない印象を受ける図式も当てはまる。

しかし、障がい者は障がい者という人種なのではなく、健常者と隣り合わせなのをお忘れなのではないかと、いやあえて忘れるようにしてきたと感じるのが私の個人的な想いである。

生まれたときから、人生の途中で、老いていく中で、どこでも大小さまざまな障がいを背負う機会はあり、健常者はたまたまその難を逃れていると考える事もできる訳であるが、加齢による障がいはいわば、門前の虎である訳で、ポックリ逝くことは希望的観測と考える。それが高齢化たるユエンなのだろう。

隣合わせ感を図化すると、以下のようになると考える。
a歩行手段の代用

これだけの層があるのに、なぜ今から、それも高齢者向けということで「超小型車」が取り上げられるのかに憤りを感じてやまない。
健常者が高齢化するのはもっともだが、障がい者も高齢化するのだ。
ならば、最初から障がい者向けの交通手段を考え抜いていれば、いずれ高齢者向けになることは想像にたやすい。

と考えれば、健常者の代替手段が何なのか、それを活用するためには何をするのが有効か、環境整備は?機材整備は?身体能力は?
石けりがサッカーになるように、かけっこがマラソンになるように、自転車がレースになるように。
ハンンドバイクレースがあるのであればハンドバイクのある生活があってもおかしくはない。こんな逆説もあり得ると考える。
そのハンドバイクが無いのは、元に戻り「共存性」に欠けているのではないか、と考えるのである。

今や市民権を得ているであろう言葉に「障がい者スポーツ」があると思う。電車で輪行すればよく言われる言葉に「レースですか?」がある。おバカな話だが、個人的にレースと聞くと何か歯が浮くような気持ちがする。理由はわかっている。レース等の「勝ち負け」という結果だけがなぜか社会との唯一の窓口、接点である世界があることへの不満なのではないか、とトラウマになっている。

今になってなぜそれが嫌なのか、ようやくわかった。結果を目的とすることによって、そこまでの手段が特別な方法であっても最終的な結果を社会と共有することができるのである。
どこか別な世界で行われていることであっても、勝ち負けという表面だけをとらえることはし易い。と言い換えるコトもできるかも知れない。

いや、レース文化をバカにするつもりは毛頭ない。むしろ、パラリンピックは燃えた。嫌なのは健常者と共有できない別世界だけで行われるような世界があることだ。
そこで別世界であることが嫌だという想いから、交通とレースとの関係をあえて図化してみた。
b歩行手段の代用


しかし、政策的にはレースを下支えする方がことが運び易いだろう。それは、逆説的に勝つという目的に対し、今すべき問題が明確にし易く、そのための解決方法も見つけ易い。その考え方は健常者も障がい者も同じであると言え、その問題解決の過程を共有化し易いからこそレース文化に注目する、ということだろうと考える。
c歩行手段の代用


ちなみに「b−3、移動手段としての分類」のずであるが、ワガママさを表す図化として下記のものを考えたところ、似たような図があることがわかった。
e歩行手段の代用


松浦晋也の「モビリティ・ビジョン」内の下記の記事。
http://archive.wiredvision.co.jp/blog/matsuura/201004/201004191900.html

この著者の記事をまとめた「のりもの進化論」。
ことらを見て、笑いすらしました。図を考えたヒトは考えていることは同じだな、と。
ちなみに、この著作の中でも感じることは多々あり、意見もありつつ。やはり足りないのはハンドバイクを含めた3輪の世界だと確信をし、中でいわれている「自転車2.0」に結びつくように、進化とはできないことへの代替である。と主張してやまない。

そう考えると、ハンドバイクの電動アシストは健常者の身体機能の代替であり、では健常者の電動アシストは何の機能の代替なのだろうかと考えると、歩道を走り回っている姿はなんともコッケイであると結論付けられるのである。




と、ここまで長々綴ったわけだが、結局、進化とは「できない」ことが「できる」ようになるということであり、共生とは「どのような立場」のひとも受け入れるということだろう。そして、「自由」とは自分の意志で「選択」することができることと考える。
また、日本人はヒトと同じことをする文化とよく言われるが、同時に感じたのが、ヒトと同じことをしたうえでヒトと比べる文化。なのかなと感じる。

最初に述べたように、ハンドバイクでマイノリティの中のマイノリティというのはこの先にあるのが確実なモノであるためには、同じようなものであるその他普通自転車がまともな社会になってこそ発展できる訳であり、今からハンドバイクの理想を唱えることはきっと普通自転車にとって「良き地ならし」ができるものと考える。

3輪に乗らなくてはならなくなった時、普通に「普通じゃない自転車」に乗れますように。

ひとまず、おわり。

tetchin01 at 19:07│Comments(0)TrackBack(0) 車いす補助車等(仮称) | Hand Bike

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