2013年02月03日
映画:逃げ後れる人々
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本日、上映会に行って参りました。
以前、石巻に行こうと思い、現地を見て、これ以外のものも含めドキュメンタリーを見て想い出してみても、まだやっぱり「どうするべきなのか」の答えが見つからない。
上映ご挨拶でも語られていたが、うがった見方になることを承知で言えば、制作側が支援団体ということもあり、サービスなどを受けている人たちが中心となる構成である。
とはいえ、知的障害などそのサービスが中断することで症状が悪化してしまうことも取り上げられ、脊損の考え方だけでは判断できない世界も垣間みれた。
今回は午後の回に行った訳だが、脊損のような手動式車いすは数台であった代わりに電動車いすは20台近く。どうやらお知り合いだったようなので、何かのグループさんだったのかも知れない。
とはいえ、順番に並んだ隣の方が、イントロの映像だけで号泣されていた。
あれは現場を知っているのだろうなと思った。
正直、脊損など自分のことは自分でできるような人には、ひょっとしたら物足りない内容なのかも知れない。しかし、車いすである以上、いつ身動きできない状態になるかわからない。当時もガソリン不足で泣きそうになったのがそれであろう。
つい先日、某国営放送でもそのようなことをやっていたのを見たが、パニック状態では良識も思いやりも抑制すら見つけられない状態になることも考えられ、エレベーターや車いすマークの駐車場を占拠されている現状から、その延長線が消えてしまうのが常にある不安である。
それでもアウトドアということで、それなりに物品を備えてはいるけれど、家で被災するとは限らず、家がある保証もない。水、食料品、医療品、寝床、トイレ、風呂。この条件を満たし、それなりの期間を過ごすためにできる「生活力」とでも言うべきか、臨機応変さが必要な訳で、またそれを人に伝える必要もある。
劇中で一つ気になった言葉。
「ここいらでは障がい者が出歩くなんてあまりない」(確かこんな言葉)
それは雪の影響であるのか、はたまた社会的影響なのか。
それで思ったことは、一つは障がい者という言葉で表現してしまったことの問題。
車いすは障がい者であることのシンボルマークでもあるように、その象徴としてわかり易い。しかし、障がい者だから車いすなのではなく、障がいという問題を解決して社会に参加するための道具が車いすなのであり、あくまでも「障害のある人」なのである。
思い込みが強いだけだが、残念ながらそのような言葉の使い分けは感じられず、どのような”人”なのかという見方ができていたのか?という疑問が残る。
事務的に把握するためには障がいの種類を把握するために手帳の有無からの把握をせざる得ない。
また、舞台あいさつでは「障がいの度合いよりも、その人の環境の度合いが重要」という言葉があったが、”障がい者”との見方しかできない場合、専門家以外ではその重要度の判断ができない。
じゃあ、研修でもして覚えさせるか?といえば、もちろんそれが職業とあれば別だが、答えは違うだろう。とならば、本人が社会に参加するというのがその答えだと思う。
だからといって、無理に仕事に就くというだけではなく、”近所でみかけるね”ということで十分だろう。
散歩として歩道を歩き、ポタリングで街中を走り、必要のある時は自家用車で出掛ける。
問題はこれらが満足にできないからこそ”近所で見かける”ことが足りないのではないか。
何度も言うように、ポタリングしていていつも感じることは街中で車いすを見かけることが少ない。
少々飛躍して言うならば、ハンドバイクが普段使いになればそんな環境にも変化が訪れるはずであり、ハンドバイクいつものように街で見かければ普通自転車の環境にも影響を与えるだろう。
ハンドバイクより手軽に町歩きを車いすでしたり、車いすの存在が認知されれば車いすマークの駐車場問題もより改善されるかも知れない。
防災、減災にもハンドバイクは役に立つはずだ。
まさにハンドバイク脳
(一部加筆有り)
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この記事へのコメント
1. Posted by タニグー 2013年02月03日 20:04
>”近所でみかけるね”ということで十分だろう。
近頃それを非常によく思います。
見慣れることの意味は、言葉以上にもっともっと大きいです。
ほんとにそう思う。
近頃それを非常によく思います。
見慣れることの意味は、言葉以上にもっともっと大きいです。
ほんとにそう思う。
2. Posted by 徹人tetsuzin 2013年02月03日 21:06
タニグーさん>コメントをありがとうございます。
カレンダーを貼っているからこそ、今日と明日がわかる。
チトちがうか。
カレンダーを貼っているからこそ、今日と明日がわかる。
チトちがうか。