荒川ミーティング到着

2013年03月18日

見えない壁

車いすにとっての壁とは、段差、階段、急坂、といったところ。
そのほとんどが見た目で判断できる、まさしく障害である。

今日この記事が載りましたね。
銀輪の死角:3人乗り自転車転倒、女児死亡 車減らし、専用レーンを 周辺道路の整備急務毎日新聞 2013年03月18日 東京朝刊 (http://mainichi.jp/feature/news/20130318ddm041040109000c.html)

不運としか言いようが無いことですが、運だけの問題なのか。

あくまで個人的な考えでこの記事を書きますが、ハンドバイクの車道通行も立て直しの困難さから、もしかすれば自分の判断誤りから一瞬にして死に至ると、常に注意しています。

今回の件を考えると、自転車を押し歩きにすることによって歩行者となったとき、交通弱者としての判断を求められることになると、車いす視線からそう思います。
そして、不運に遭遇したということは、そこに見えない壁、障害があったと考えるに至りました。

2輪の自転車はそのタイヤ幅程の場所さえあれば機体そのものを通すことはできるでしょう。一本橋という訓練があることから想像できます。

しかし、押し歩きは人が押します。人 + 自転車 ということです。

道路構造令では押し歩きの占有幅の表記はありません。
勿論実際には個人差があることから正確なデータにより分析を行う必要があると思いますが、残念ながら私にはその術がありません。

仮に、構造令にある占有幅の表記から物理的幅である 0.5 +0.6=1.1 (単位m)と想定するとします。
ほぼ自転車2台分となり、歩行者の占有幅より無論、広くの場所が必要になるでしょう。そしてそれが歩行者と、ましてや押し歩きの自転車同士がすれ違った場合はどうか。

とは言え、実際には身を縮めてなんとか済ませている、これで今まで無事だったはずが、そうではなくなった瞬間の出来事と考えることができるでしょう。

そしてこの瞬間的出来事が、見えない壁だったのだと考えます。
逆方向だったり、3人乗りだったり、踏切があったり、迂回路があったのか、など要因はいくつも考えられます。
しかし目安として、この自転車を押し歩きするためには○○mの幅が必要であるという感覚が備わっていて、直感的に危険度の判断ができたなら。

そのためには何をすることができ、何をすべきだったのでしょうか?
それが練習ということなのかなとも考えますが、その極論として、3輪の活用という言葉がふと湧いて出てきました。

バイクレーンを新たに設置したり、それこそ道路の再配分をするのは、車いすでいえばスロープやエレベータを設置するようなことで、もちろん喜ぶべきことではあります。

しかし、それよりも自転車を積極的に利用したい想いを尊重して、強者としての自動車側が自転車の存在を認識し、時には場所を譲る。
それが、SHARE THE ROADの考え方だろうと思います。

まだすぐに子載せは無理だとしても、その他の元気な自転車なら、車道に出る勇気ともう一つオマケにヘルメットをかぶる最初の勇気があること。

それができるまでが見えない壁、ガラスの天井であり、これからがまさにそれを越えようとしている時なのだろうと感じます。


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この記事へのコメント

1. Posted by のら隊長   2013年03月19日 13:57
ちょっと事例は違いますが、思い出しましたよ。
2005年6月13日、私は路肩をシュトリッカーで走っていて、自動車に接触されて路肩に投げ出された経験があります。もし路上に投げ出されて、後続車があったら、間違いなくもっと大きな事故になっていたでしょうね。
http://blog.goo.ne.jp/noraashi/e/e5e1391dc07123b88edd6a3dc125d2c4
普通の自転車に比べて、三輪のハンドバイクって幅がありますから、路肩をハンドバイクで走っていると、車での通常の走行感覚だと、引っかけやすいのかも知れません。

直接の原因はドライバーがケータイのメールをしていて路肩の私に気付かなかった前方不注意なんですが、その日は夜で、いちおう後方のライトも点灯させていたはずなんですが、いなかの街灯も無いような道ですから、いかにミニバンの視界が良さそうな車ですら、見落とす可能性もあるってことです。
2. Posted by 徹人tetsuzin   2013年03月20日 17:13
のら隊長さん>
コメントをありがとうございます。
思い出すだなんて、遠い過去にしては過酷ですね。当時拝見した覚えがあります。

すいませんが、それこそその顛末として保証とかの結果を忘れてしまいました。ある程度円満に済んだのでしたっけ?
前方不注意の原因がメール打ちだなんて、言語道断です。ただの車いすが居たとしても、起こりうる状況だったと言うことができ、共有している存在はいないと思い込んでいることの証明にしかなりませんね。のらさんのケースに至っては、明らかな悪者がいる状態だということができます。

余計なお世話ですが、今回の川崎の事故の特筆すべきことは、直接的な悪者が存在しない、ことです。
反面、間接的な原因は数多く存在する訳で、それを不運の一言で済ますべきではない、というのがこの事故の教訓なのです。そしてその教訓を共有することがこれから求められている行動だと思わずにやみません。

ヘルメットもそうですが、イギリス寄りのニュージーランドでは蛍光イエローのベストは標準装備であり、我が身は我が身で守るという空気感を感じました。

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