2013年04月21日
自転車の自立
自転車は、タイヤとイスと、ハンドルとクランクがついている。
ならば、車いすの延長線だろう。と思えてきた。
過日、今年度初となる自活研の研究会へ参加して参りました。
【2013年度第1回自転車活用研究会】
『ともに生き、ともに走る ver.2』
〜日本の路上におけるモビリティのプライオリティ〜
講師:河口 まなぶ さん(モータージャーナリスト/有限会社 Lucca)
というテーマにより話しが進められ、そのなかで幾度となく語られた言葉が”自立”。
今、気になっている「障害者差別解消法」(以前は障害者差別禁止法)と、知りたいと読み更けているADAと繋がってしまい、そのあまりにも似すぎる話しに一人ニヤついてしまっていた。
ADA(障害をもつアメリカ人法)の衝撃 [単行本]
この本についてはまた改めて書きたいと思っているが、この20年も前(1991年初版)に書かれた内容が、障害者差別解消法が提出される今年に読めば、まったく色あせていないことが驚きである、反面、それだけ立ち後れているのだということも容易にわかるのである。
寄稿文となっているこの本で、共通して謳われているのが公民権運動と自立生活。
自分勝手に、ここ最近聞いた話しが全てに繋がると感じたこと。
今も進行中なのかは不明だが、自普協も「自転車市民権宣言」という取り組みをしていた。
先日のグッチャリ荒川ミーティングでは、河川事務所の方が市民権運動と江戸しぐさのお話をされた。
そして、今回の研究会では江戸しぐさのことと、自立。
そして、今国会での障害者差別解消法案についてのニュースとか。
研究会の最後に発言せずにはいられなくなって「障害者と健常者との関係に似ている」と言ったものの、不思議がられたのだろう。
現状の日本では自転車を本来の使い方をしようとしたとき、車道では弱者であり歩道では強者となり、つまり自転車という立場が確立されていない。
そこで、強者と弱者という言葉を言い換えてみる。差別する側と差別される側。その差別により侵害されることとは「当たり前に移動すること」。
自転車が”走る場所を走る”ことができないが差別されていることであり、自身の移動する権利を侵害されているのであれば。
自転車が”走れない場所を走る”ことが差別していることであり、他者の移動する権利を侵害しているのであれば。
この権利を侵害することが日常化されていること自体が見えない壁であり、健常者はタイヤを使わなくても足により移動することができるので、それが権利の侵害だと感じることが希薄なのだと考えることができる。
では、歩行者の移動を侵害することも無く、自動車を避けること無く、回り道や行き止まりになることも無く、当たり前に街を移動できるようになる、このことを考えると次のような例えをすることができる。
車いすが階段や段差がなくなったことによって社会参加ができるようになったように、自転車が社会参加できるようになるための方法を考えた時、弱者を侵害しないように車道を走り、強者から侵害されずさらに社会から隔離されない仕組み、と考えると改めて、柵などの無い自転車レーンであり、SHARE THE ROADの考えなのではないか、との思いに行き着くのである。
要は、車いすにとってのスロープは自転車にとっての自転車レーンであり、目的は社会参加であり、結果の平等よりも機会の平等が必要であり、必要なものは保護ではなく自立なのだろう。
そう考えると、ハンドバイクはその最たるものなのかも知れない。
次の研究会をまた楽しみたい。
ならば、車いすの延長線だろう。と思えてきた。
過日、今年度初となる自活研の研究会へ参加して参りました。
【2013年度第1回自転車活用研究会】
『ともに生き、ともに走る ver.2』
〜日本の路上におけるモビリティのプライオリティ〜
講師:河口 まなぶ さん(モータージャーナリスト/有限会社 Lucca)
というテーマにより話しが進められ、そのなかで幾度となく語られた言葉が”自立”。
今、気になっている「障害者差別解消法」(以前は障害者差別禁止法)と、知りたいと読み更けているADAと繋がってしまい、そのあまりにも似すぎる話しに一人ニヤついてしまっていた。
ADA(障害をもつアメリカ人法)の衝撃 [単行本]
この本についてはまた改めて書きたいと思っているが、この20年も前(1991年初版)に書かれた内容が、障害者差別解消法が提出される今年に読めば、まったく色あせていないことが驚きである、反面、それだけ立ち後れているのだということも容易にわかるのである。
寄稿文となっているこの本で、共通して謳われているのが公民権運動と自立生活。
自分勝手に、ここ最近聞いた話しが全てに繋がると感じたこと。
今も進行中なのかは不明だが、自普協も「自転車市民権宣言」という取り組みをしていた。
先日のグッチャリ荒川ミーティングでは、河川事務所の方が市民権運動と江戸しぐさのお話をされた。
そして、今回の研究会では江戸しぐさのことと、自立。
そして、今国会での障害者差別解消法案についてのニュースとか。
研究会の最後に発言せずにはいられなくなって「障害者と健常者との関係に似ている」と言ったものの、不思議がられたのだろう。
現状の日本では自転車を本来の使い方をしようとしたとき、車道では弱者であり歩道では強者となり、つまり自転車という立場が確立されていない。
そこで、強者と弱者という言葉を言い換えてみる。差別する側と差別される側。その差別により侵害されることとは「当たり前に移動すること」。
自転車が”走る場所を走る”ことができないが差別されていることであり、自身の移動する権利を侵害されているのであれば。
自転車が”走れない場所を走る”ことが差別していることであり、他者の移動する権利を侵害しているのであれば。
この権利を侵害することが日常化されていること自体が見えない壁であり、健常者はタイヤを使わなくても足により移動することができるので、それが権利の侵害だと感じることが希薄なのだと考えることができる。
では、歩行者の移動を侵害することも無く、自動車を避けること無く、回り道や行き止まりになることも無く、当たり前に街を移動できるようになる、このことを考えると次のような例えをすることができる。
車いすが階段や段差がなくなったことによって社会参加ができるようになったように、自転車が社会参加できるようになるための方法を考えた時、弱者を侵害しないように車道を走り、強者から侵害されずさらに社会から隔離されない仕組み、と考えると改めて、柵などの無い自転車レーンであり、SHARE THE ROADの考えなのではないか、との思いに行き着くのである。
要は、車いすにとってのスロープは自転車にとっての自転車レーンであり、目的は社会参加であり、結果の平等よりも機会の平等が必要であり、必要なものは保護ではなく自立なのだろう。
そう考えると、ハンドバイクはその最たるものなのかも知れない。
次の研究会をまた楽しみたい。