順応ふらりとふらいと

2014年09月22日

TOKYO CYCLING SUMMIT

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TOKYO CYCLING SUMMIT(http://tokyocity.j-cycling.org/summit/)
先日、こんなシンポジウムを拝見しました。

正直、申し込む前は「どうせこんなもん」などと勘ぐって考えていたのですが、先の記事での動画のこともあり(関連記事:順応)、急に興味が湧いてしまいました。

結果、行けてよかったです。
後日まとめられたものが掲載されるとのことでそれはフォローしたいと思います。
どのように良かったかを改めて考えれば、

ニューヨークのポジティブな考え方による施策と、
東京都のネガティブな考え方による施策の対比
がとても印象深かったです。

動画でもいわれていることですがニューヨーク側の、この”できることの勇気”がスゴいと思いましたね。
とりあえず書いてみる。それがダメなら消せば良い。

そして東京側のプレゼンでは、
「車道の速度とクルマの交通量の比較から車道と自転車を共有(自転車レーン)をするべきではなく分離した方(自転車道)が良い。」
「快適車(ママチャリ)は弱者である。」
という、私個人としては驚きと言うか悲しい説明がされ、さらに

「高齢者は車道を渡りきれないため自転車レーンの片側2m、両側4メートルは高齢者を交差点通過させるためには認められない。」

という、今までの疑問が払拭されたお話を頂きました。(と同時に憤慨)
下ののものはまだ完成する前の新虎通りのものですが、この自転車道の終わりと始まりという瞬間芸はこの理屈から行われているのだということがわかりました。
DSC_0064

ならば、なぜ、その渡りきれない人たちに突っ込ませるカタチを”良し”とするのか。

ここ数年、ハンドバイクにこだわりつつ道路を見て来たのは、そこには(全体の)車いすとしての功罪もあるのではないか、ということ。
やもすれば、最後にはバリアフリーのため、などと言葉が付け加えられるのではないかとヒヤヒヤします。
仮に、車いすが横断歩道が渡れないからと自転車レーンを否定された場合、同時にハンドバイクとしての自転車も否定される、ということとなります。
すると、「相反するバリア」という自己矛盾が生じる訳であり、この自己矛盾が自分自身でのテーマの一つでもある訳です。

そんな事柄を払拭してくれる言葉を教えてもらいました。
隣席の方のツィートから引用します。


一番初め、道路に関して興味を持ったことばである疋田氏の「道路は誰のものか」に次ぐ衝撃の言葉で、これもまたハンドバイクがもつ問題の底辺であり、かつ、打開するための言葉だろうと思います。

面白いことに、ニューヨークと東京それぞれの話しが反比例するかのように聞こえながら、双方ともその求めるものは「インフラ、教育、支援活動」という3点に集約されていることがとても興味深い。

要はそれをどう実現できたか、できなかったかで10年単位の差が明らかに目の前にあるということ。

「インフラ、教育、支援活動」
イベントはその集大成であるということですね。
もし、イベントに参加して不満が残るのであれば、どれかが欠けているということなのかもしれません。



今回、ニュースとしていくつものソースから発せられていますが、今回のシンポジウムの実行委員長である谷垣氏から、「自転車特区」の話しがでましたね。

東京の交通網 自転車活用を議論(NHK WebNEWS 9月20日 18時37分)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140920/k10014755731000.html


特区として実験的なことができる、のであれば、是非ともハンドバイクそれも

”アダプタ式のハンドバイクを社会インフラとして”

取り扱って欲しい。




まずはここから。

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